HISTORYの和訳

’99年か’00年位にメルビンによって書かれたオフィシャルサイトHISTORYの和訳です。ネイティブの言い回しが難しく微妙な部分ありますが、エル・ヘフェ加入までのバンド初期の模様をどうぞ。

バンド史

バンドの中で一番マリファナをやってる奴にバンド史を書かせようってってイカしたアイディアだよね。それは俺(エリック メルビン)さ。それがどんなに重要なことであっても、5分前に言ったことでさえ、覚えていられない男さ。試しに過去16年間の人生を、わかりやすく書いてみるぜ。

1983 最初の練習

よく覚えていることがある。フェアファックス・ハイスクールの、パンカー達がたむろするいつもの場所でランチタイムにディロンてガキと一緒に座ってた。 奴はドラマーで俺たちは、その頃入っていたバンドに満足してなかった。 俺のバンドは、俺と唯一のパンクロック仲間で双方とも歌とギターをやリ、そしてそれだけだった。 俺らのどちらも最後まで曲を演奏したことがなかった。 まったくもって成功のレシピとは言いがたい。そこで俺はダチにバンド始めようぜって言った。 本物のバンド、本領を発揮するバンド。曲をかき、練習 、レコードを出し、ツアーを続ける。 俺たちはこのバンドに、他に誰か必要か話し合った。 俺たちはLA辺リのパンクギグに行っていい連中をたくさん知っていた。 奴はファルスアラームというバンドにいたマイクというベースプレーヤーを知っていた。 オレンジカウンティのスティーブっていう奴は、最高の表看板プレーヤーになりそうだって、俺たち二人とも意見が一致した。 何回か電話して、会って最初の練習をするよう手配した。

俺たちはこうして初めてマイクに会った。 マイクはミスフィッツの大ファンだった。みたまんまミスフィッツファンだ。彼は、真ん中を長くした髪をスプレーで固めて顔の真ん中に垂らしていた。 デヴィロックっていうヘアスタイルだ。マイクは俺らのために何曲か演奏した。 俺は「テイク・パート」という曲を書いていた。 それはおっそろしいほどモンキースステッピングストーンのMinor Threatバージョンに似ていた。スティーブはその初めての練習には行かなかった。奴はオレンジカウンティから出てこれなかった。その初めての練習のあと、ディロンがやめて、マイクがエリック(現ドラム エリック・サンディン)を連れてきた。マイクとエリックは2年も前にハリウッドでスケートボードをやっている時に知リ合っていた。エリックはマイクのブラックフラッグのスケートボードが好きだった。それはパンクだった。マイクはそのときエリックに、ファルスアラームに入ってくれるよう頼んだが、まだ免許を持っていないからという理由で彼の母ちゃんが入れさせてもらえなかったんだ。後になって、俺たちが奴に俺らのバンドでドラムをやらないかと頼んだとき、奴はコウスティック コウスというバンドに入ってた。エリックは俺たちのバンドに加わったが、優先権はもうひとつのバンドの方にあった。俺たちは4ピースの4人のつもリだったが、3人で練習した。スティーブはまだ一度も練習に参加したことはなかった。

名前

マイクと俺は、奴の家にたむろして奴のパンクロックのレコードを全部聴いた。いいバンド名を思いつこうとしていたんだ。俺は、ネガティブFXっていう、一枚のレコードを出したきり解散しちまったバンドに因んで、No FXって提案した。マイクも今までで一番いいって同意した。その頃は胡散臭いバンドがいっぱいいた。俺たちはそのバンド名には、それらクソバンドと一緒にするなって意味をこめたかった。1983年、4人のメンバーの内3人は、マイナースレットのファーストシングルに伴うストレートエッジのムーブメントに入っていたが、俺たちはストレートエッジのバンドだったためしはないからな、いいかい?

最初のギグ

ハリウッドのセルマアンドアーガイルにキャセイデグランデというクラブかあった。俺たちが見に行ったのは、D.R.I、ザ・ステインズ、 リーカン・ユース、マイナー・スレット、ブラックフラッグビフォアヘンリー 、後にバングルスになったバングス、それとソシアルディストーションだった。火曜の夜には新しいバンドがプレイし、1ドルで入れた。ポモナの俺たちの友人はジャスティスリーグってバンドをやっていた。ある火曜日、奴らは初めてのギグをやることになったので俺らは奴らの楽器 を借りて、奴らの後にプレイしてもいいか聞いた。俺たちはスティーブを除いて、みんなそろっていた。俺らが知ってる4曲全部を演奏した。何年か後で、そのジャスティスリーグのガキどもは、そのときの演奏が俺らの今まてのショウの中で最高だったと断言した。 スティーブは、俺たちが奴抜きでプレイしたのを知って、実際には入ってもいなかったこのバンドをやめちまった。

で、俺らは3人だった。マイクと俺は歌うのを代わろうとしたが、俺は、同時に歌を歌うなんていうまでもなく、かろうじてギターを弾くのがやっとだった。これが、マイクが俺たちのシンガーになった成り行きさ。

初めてのデモテープ

俺たちの曲をレコーディングして、テープを出すときがきた。 気まぐれな運命の女神が微笑んでくれて、ガームズフェイムのドン・ボールズが、もし彼の車のガスを満タンにしてくれるなら、俺らのデモをプロデュースしてやってもいいと言い出した。 俺たちはデモテープを宣伝するフライヤーを作リ、フリップサイドに広告を載せた。カセットテープと切手を貼った封筒を送ってくれれば、コピーして送リ返すって。

1985年 最初のツアー

俺たちは、デモテープを聴いた人たちから手紙をもらった。ブラッドという男かボイジから書いて寄こした。もし俺らが彼のガレージでギグをやるなら、200ドル払ってもいいって。そこで俺たちは、リノ、ポートランド、それからアシュランド、オレゴンと電話をかけまくって、他のギグをとリつけた。俺は父ちゃんと母ちゃんにファーストツアーに出るのにカントリースクエアステーションワゴンを使っていいかどうか聞いた。彼らはOKしてくれた。1ヶ月前に俺がリア・ウインドウを壊しちまっていたんでプラスチックをテープでくっつけ、アンプを後ろに投げ込んでリノに向かって出発した。リノのギグの後、ある男の家に泊まった。彼は俺らがどんな女の子でも彼のアパートに連れ込むのを承知しなかった。誰かがなんとかして女の子を忍び込ませ、翌朝、こっそリ帰らせた。そいつは彼女の下着を見つけると、ブチきれて俺らを叩き出したんたぜ。

ボイジでは、ブラッドのガレージて演奏した。奴はフライヤーを作リ、ボイジ中のパンカーが集まってきた。そこには安いビールの樽があった。記憶が正確なら、そこにはいつでも安いビールの樽があったな。ショーの後、ブラッドは彼が集めた50ドルをくれ、金が足りないことを謝った。彼は無ー文だった。

俺たちはポートランドのサテリコンというクラブてプレイした。もうひとつのバンドはオイリーブラッドメンっていった。シンガーのリッチが彼の所に泊まってもいいって言ってくれた。奴の所に行くやいなや、野球のバットを持ったクソガキと、狂った殺人鬼の話をしだした。エリックは奴の家を怖がっちまって、車で寝たんだ。リッチは、その後何年もポートランドでプレイするときはいつも見に来てくれるいい友達になった。アシュランドでは、ソサエティ スリートというバンドとプレイした。街中の40のパンクスが現れ、それから俺らみんなで誰かの家にアフターギグパーティに押しかけた。それが、 let’s-play-get-drunk-and-take-hallucinogenics trip to Ashlandが習慣になった最初だった。

それはツアーの最後のショウだった。俺たちはギグはなかったが、LAに帰る途中、サンフランシスコに立ち寄った。俺たちが駐車場を占拠して歩道に溜まっていると、お巡りが言いがかりをつけてきやがった。俺たちのローディーが、俺らはフリスコは初めてなんだと説明したが、お巡りは、まず第一にここは「フリスコ」じゃない、ここは「サンフランシスコ」だと言った。俺らは、切符切られて悪いスタートを切リたくなかったから、バックレた方がよさそうだった。

エリックがやめる

エリックはサンタバーバラに引越したので次のツアーには同行しなかっ た。俺たちは彼の代わリにスコットっていうドラマーを見つけた。 LAを隣れる前に俺たちはタンクをガソリンで満たしておかなけりゃならなかったから、俺らはみんなポケットに手を伸ばした。スコットはわずか6ドルでLAを発とうとしてたんたぜ。バカだろ?

1985年最初のU.Sツアー

マイクは車を売って俺らのツアー用のダッジバンを購入した。そのバンが何度故障したか、思い出すこともできない。俺たちは結局屋根の下全てを交換したっけ。それはほとんど、お巡りを引き寄せる磁石のようなものだった。俺たちの行くどこででもお巡りが言いがかりをつけてきた。恐らく、横に描かれた巨大な、NOFXの落書きのせいだ。痛い教訓だった。
俺たちがプレイできる場所はそんなに多くなかった。もしリンカーンのレクレーションセンターてギグをやって、マディソンまでなにもなかったら、俺たちは誰かいい奴か地元の奴の家で翌晩まで地下のパーティーをやって、それから一週間彼の家の床で寝た。 そのツアーの後、マイクは学校に通うためにサンフランシスコに引越した。2、3ヶ月も俺等のボーカルをやらないうちにデイヴは自動車車故で死んじまった。ドラマーのスコットはやめた。サンタバーバラに住んているエリックに、俺たちはもう一度NOFXてやらねえか話した。俺は、シティカレッジに通うため、サンタバーバラに引越した。俺たちはまた3人に戻ったけど、セカンドギタープレーヤーを加えたかった。

テイヴ加入

元はラットパックやいくつかのオキシナードエリアバンドにいたデイヴ・カシラスが俺等のバンドに加入した。彼と、2回アメリカツアーをやリ、初めてヨーロッパにも行った。彼は、俺たちのリベラルのアニメーションLP, the P.M.R.C. can suck on this、Drowning Rosesと共演した(Sand M Airfire) のファーストヴァージョンなどを演奏した。

初めてのヨーロッパツアー

俺たちか数ヶ月前ギルマン通リで会ったドイツ人出演契約業者にマイクが電話した時、俺たちはアメリカツアー中で東海岸にいた。彼(ドイツ人)はザ・アドレッセンツのためにツアーを組んだが、彼(ザ・アドレッセンツ)らは最後の最後てツアーをキャンセルしたばかりだった。その頃ドイツ人バンドのドロウニング・ローゼスというバンドと一緒に共演し、バンを共有し、行動を共にしていたが、彼はまだアメリカンバンドを欲しがっていた。俺たちは当時ザ・アドレッセンツのような人気には程遠かったが、彼はそれでも俺たちとアドレッセンツの代わリにヨーロッパツアーの契約をしたんだ。

ちょうど俺たちがアメリカを発つ前に、デイヴは事故に遭った。彼らは、バンド・サブカルチャーの俺らの友達と一日中飲んでいた。 そこに、ボーズハウスに森林地帯から切り出してきた切り株に水を満たして湖をつくった男がいた。彼らは、短い柱からダイビングしていた。彼らは、その巨大な切り株は、左はダイブに十分な深さがないから、右にダイブしろと言った。俺は、彼がいつも右と左について、ちょっと混乱していたことを覚えている。結局コブが消えたのは、その後ヨーロッパでの6週間のあとたった。俺は、彼がドイツのどこかで抜糸したと思う。

デイヴ脱退

それは、デイヴが、NOFXの曲をどうやって演奏するか覚えていられるギタリストとしてよりも、パーティーで酔っ払って、転んでいるときの方が面白い奴ってことをはっきりさせた。ヨーロッパツアーの後、マイク、エリック、そして俺はどうするか話し合った。マイクが彼を呼びつけたときが、彼が脱退したときさ。

スティーブ加入

前、「New Improved God」と呼ばれていたバンドがあった。 ベースプレーヤーのスキップと俺はそこ何年か友達だった。スキップは、オールドダウンタウンのスクリームで、その男スティーヴを紹介してくれた。俺はNOFXは、新しいギターリストを必要としていること、ファットマイクが彼の長髪を嫌うかもしれないと話した。一週間ほどして、彼はリハーサルに現れた。 俺たちは “S&M Airlines”アルバムに収録した2曲をやった。ファットマイクはやはリ、奴のロングヘアーが気に食わなかったが、スティーヴはバンドに加わった。S&Mは、その日から1ヵ月後に順調にレコーティングされた。たとえ、アルバムが出る前でも、俺たちは合衆国とカナダのツアーに乗り出さなくちゃならなかった。俺たちは数ヶ月街に戻って、それから一ヶ月半ヨーロッパに出かけた。合衆国に練習に戻リ、それから”Ribbed”をレコーティングした。アルバムのカバーとネーミングにまったくアイディアがなく行き詰っていた時にスティーヴが”FUCK IT”(どうでもいいぜ) !! アルバムのカバーはでかいコンドー ムでも描いたらいいだろ!! ”なんちゅう天才なんだ!! ”ツアーに戻ると、始めのアメリカからヨーロッパに戻るまでThe Leaving TrainやBad ReligionそしてModhoneyなどの本物のバンドと演奏した。

スティーヴ脱退

スティーヴと俺がバーバンクのバーベキューにいたとき、スティーヴはバンドを脱退するって宣言した。いつもの通リ、俺たちはマリファナでいい気分になっていた。そこで俺はよく聞こえなかったんじゃないかと考えた。でも、どうやらそうではなかった。彼は個人的なことじゃなく、まさにバンドから離れることを必要としていた。後になって俺は、彼の脱退の主な原因のひとつが、バンド内のドラッグの乱用(彼のではなく)にあることがわかった。彼はもうそれを受け入れることはできなかったんだ。

エル・ヘフェ加入

今や我々は再びギタリストが必要となった。俺らのどこが悪いんだ?俺たちはサンフランシスコで練習をし、ギタリストを試用してみた俺の友達のロブがギターを持っていたので彼にサンフランシスコまで乗せてくれと頼んだ。
エリックはCrystalSphereというバンドのギタリスト、アーロンという友達と、マーク・カリーという名の酔っ払いがいた。あと、ラスベガスから来たケヴィンも試用されたがった。彼は、NOFXのイレズミをしてサンフランシスコにあらわれた。全ての理由で、彼が仕事をゲ ットするべきだったが、いずれにしろ俺たちは別の奴を試用した。彼もトランペットを演奏した。絶対俺らにとっていいはずだ。彼はまったくもっておもしろかった。ただ問題は俺らのバンドには既に二人のエリックがいたってことだ。アーロンを加えると混乱しちまう。そこで俺らはロブを試用してみた。彼は良かったけど、アーロンが最高だった。俺たちは彼に新しい名前をつけることにした。彼がNOFXで一番適格なミューシシャンなので、彼をエル・ヘフェと名づけた。
終わり。

ここまで読んでくれてありがとうございます!オフィシャルサイトでもここまでしか書かれてない。でも今は’17年11月にNOFX自伝 間違いだらけのパンク・バンド成功指南の日本語版が出版されてるのでもっと詳しくちゃんと?した訳で読めるw
SEX&DRUGのめちゃくちゃなバンド人生はマジPUNKで好きだけど、Fat Mikeは酒とクスリで’16年5月に依存症のリハビリ施設に入院したみたいなので、まぁほどほどが良いね。いや薬は駄目だw

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